近所の市川市立図書館に、柴田俊一という京都大学原子炉実験所長を務めた人の『原子炉お節介学入門』(上・下巻)という本が置いてありました。
どうやら専門書というよりエッセイに近い本らしいのですが、京都大学の学者先生が書く難解極まりない内容に、私の頭では理解するに至らず途中で挫折しました。
#学者が「一般の人にも分かるようできるだけ平易な説明につとめた」みたいなことを「はしがき」に書いている本で平易に読めたためしなど一度もない。
そんな本に京大実験炉を立ち上げたときのこぼれ話がいくつか書いてあるなか、すごい違和感があったのが、
「私が責任を持つからこれでやろう」(上巻23ページ)
「何かあれば責任は取ると言っている」(同25ページ)
「当然引責辞職も覚悟しての発言」(同24ページ)
というくだりです。
いや、原子炉が噴いたらあなた一人で責任なんか取りきれないでしょうよ。
……と、自分なんかは「おかしい」と思うわけです。
ただ、京大実験炉ができたのは1964年(昭和39年)と、47年も前の話です。
あの頃は、いまと比べてまだまだ「肩書き」や「地位」というものが権威ある存在で、そういったものを欲しがる人が大勢いた時代だったのでしょう。
その人がせっかくのぼりつめた「地位」を手放す、と宣言すれば、とにかく「偉い人」をやっつけてそれで納得する人が大勢いた時代が過去にはあったのかもしれません。
時代は変わって21世紀になり、原子力発電所が事故を起こしました。
まさか、「東京電力の会長と社長が辞めます」で通用するはずがないんです。
しょせんサラリーマンでしかない経営陣の代わりなんていくらでもいますし、極端な話、誰がなっても大して変わりません。(ズバリ)
#だから、現在の会長と社長がすぐに辞めるのはあまり意味がない、と自分は思う。
もしもソフトバンクの孫正義氏が不慮の事故で急逝でもすればソフトバンクグループの命運に関わり、系列各社のサービス内容にも影響が及ぶかもしれませんが、仮に東京電力で同じことが起きても、部屋のスイッチを入れれば当然のように電気が点く世の中は、これからも変わることがないでしょう。
そういう会社のしくみができているからです。
経営陣や従業員という個人をクビにするなり牢屋に入れるなりで責任を取らせたことにしてその場は決着しても、いずれまた別の人が同じことを繰り返すだけ(←重要)ですから、もしも東京電力にこそ事故の原因と責任があるのだと仮定すれば、責任を取るというのはつまり東京電力という組織が「しくみを変える」ということでなければいけないはずです。
#そういう観点では、JR西日本の過去の社長「個人」に事故の予見可能性を問うのは疑問
何かあればいち個人を血祭りにあげればそれでいい、という時代はとっくに終わりました。
それが通用するのは、オーナーとして会社を自分で経営する資本家くらいでしょうね。
つけ加えて、沖縄電力を除く独占系電力会社は、まさか純粋な民間会社としての自律的な経営判断で原子力発電事業をやるはずがないんです。
(一定の条件下で)電力事業への参入が自由化された現在、純粋な民間事業として本当にソロバンが合うんなら、いまごろ独立発電事業者(IPP)がこぞって自発的に原発建ててますって。……もしそれで噴いたら、政府は知りませんから破産でも何でもして自分で尻拭いしてくださいね、という話に当然なるでしょうけれど。
日本の原子力発電所は「エネルギーの安定確保」という、市場経済の論理を超越した国家的な課題のために、国の政策として、沖縄電力を除く地域独占の電力会社と、日本原電という特殊法人と、最近民営化されたばかりの電源開発にやらせてるんじゃないですか。
浜岡原発の件も、総理大臣にハシゴを外されちゃったら、原子力発電所を100%中部電力の自己責任で稼動させることなど到底無理なんですよ。
そこへきて、今回の事故は「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたもの」じゃありません、通常起こりうるレベルの津波で発生した東京電力の責任事故です、とでも言いたげな政府首脳の姿勢は筋違いだと思います。
現時点での世論はおよそ許さないでしょうが、個人的には東京電力が「政府のエネルギー政策のせいでソロバンに合わない原子力発電をやらされたあげくに損害をこうむった!」と主張してもよいとすら思います。
東京電力として主張するのが無理でも、虎の子を東京電力株にして安定資産のつもりで老後の資金か何かにしていた零細個人(←重要)が集まって国家を相手に集団訴訟でも起こせば、一定の支持は得られるんじゃないでしょうか。
今回の事故は、東京電力の国有化なり電力料金の値上げなり何なりやり方はどうあれ、国家として、安定したエネルギーを要求し消費してきた主権者である国民が、最終的な責任を取らなくてはいけない事柄だと自分は考えます。