失敗の軽重が分からない

 おととい、上野の東京障害者職業センターでカウンセラーと面談するのに、「2週間の体験コースを振り返って」という用紙に記入して持っていくのをすっかり忘れていました。

 結論から言えば「なくても面談は(多少の滞りはあったかもしれないが)無事進行した」のですが、帰り道の自分の落ち込みようといったらありませんでした。

・カウンセラーという職業だから暖かく応じてくれたけど、会社だったら……(gkbr
  ↓
・人との約束が守れないなんて社会人失格
  ↓
・それでいて大阪に2度も遊びになんか行きやがって一体何なの
  ↓
・存在自体が人に迷惑をかけている
  ↓
・日比谷線に飛び込んでしまおう
  ↓
・でもそんなことをしたら周りがもっと迷惑する
  ↓
・恥をさらしながらおめおめと無駄飯を食らい続けるしかない……マジ情けない…情けない…


 しかもTwitterで思ったままをつぶやきまくったので、ドン引きした人もいたと思います。……「Twitterは脊髄反射メディア」とはよくいったものです。


 たしかに見方によっては「約束を破った」「課題を放り出して遊びに行っていた」(意図的に放り出したのではなく失念していたのですが)ということ「も」できて、この一面だけを取り出せば、「社会人としてどうしようもない」という結論になります。

 一方、「多少の滞りはあったにせよ、面談は無事に進行した」のも事実で、「体験期間を振り返って、今後のプログラムを決める」という目的が一定水準で達せられた以上、過度に責めることにメリットがないともいえます。


 ……と、後者のように冷静に考えられたのは、地下鉄で原木中山駅に着いて歩いて帰るあたりになってからで、それまで1時間ほど、私の頭の中は大変なことになってました。

 もちろん、重大な失敗をしてあっけらかんとしているようでは問題でしょうが、ことあるごとに毎度「自分はもうダメだ」と思ってしまうようでも困ります。

 病んでいるのだなぁ、と思うできごとでした。
author by よんなん
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